「マニア倶楽部」は、日本でたったひとつの投稿SM専門誌です。
緊縛、浣腸、おしおき、アナル、失禁、監禁、野外露出……。
様々な変態性癖に悩むマニア女性たちが、全国から集まってきます。
あなたの心の中にひそむ恥ずかしい性癖を理解してくれる仲間はかならずいます。
まずは、サイトをご覧ください。
保護中: [MC60]定期購読限定:2017年5月号
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すず(仮名)
お久しぶりです。前回、貴社の雑誌『家畜マゾ保育士 性奴隷化の記録』にて紹介した我が愛奴、すずに貸し出しを願うメールをいただきました。
お相手はN氏という四十代の男性で、私と同じく、奴隷調教を趣味にしている方。N氏の提案がとても刺激的だったので、連絡を取った次第。
許可を得たので、N氏からのメール内容を転載します。
「はじめまして、私は奴隷調教を愉しんでいるS男性です。既婚者ですが、妻とは別に、真性マゾの奴隷を愛人として飼っています。雑誌ですずさんを見て、とても素敵なM女だと思いました。こんな女性を調教出来たら、どれだけ興奮するかと……。
Sプレイに興味があるけれど実体験をしたことがない。そんな初心者Sの僕ですが、かなこさんは、丁寧に対応してくれました。
緊張して上手くしゃべれない僕に、どんな道具があるか、どんなコトがしてみたいか等を聞いて、上手に導いてくれたのです。実際にかなこさんにリードしてもらったから調教プレイが出来たのだと思います。きっと本格的なS男性ならかなこさんのM性を上手く引き出せると思うのですが、僕にはまだ経験値が足りませんでした。
経験を積んで次回、かなこさんの深いM性を満たしてあげたいと思いました。今回はありがとうございました。 (体験者・古市)
■編集部では、今回の体験者氏のようにSM体験をして下さる男性モデルを募集中です。詳しくは三和倶楽部のホームページをごらん下さい。
Mr.スポック(PN)
羞恥マゾ妻を得た歓び
初めまして。私の愛する妻をどうしてもみなさまに自慢したくて、恥ずかしながら初めての投稿をさせていただきます。
写真と映像を見ればご理解いただける通り、妻の未知子(仮名)は今、私たちふたりの子供をお腹に宿しています。私の連日の生ペニス責めによって、未知子は妊娠したのです。
SM嗜好を持つ夫婦にとって、これ以上の歓びはないのではないでしょうか。歓び、と言うならば、そもそも私と未知子の出会いこそが奇跡であり、歓びでした。お互い他のパートナーのことなどまったく考えることができないくらい、肉体的にも性癖的にも合致しているのです。
私と未知子には、性格的にもよく似たところがあります。
ふたりとも几帳面で、仕事に対して真面目なところ。そして羞恥心が人一倍強い点です。
夫婦のこんな姿を投稿しておいて「羞恥心が強い」などと言うのはおかしいと思われるかも知れませんが、本当です。
私は、かなり早くからS的な嗜好を持っていました。中学生くらいになって性に目覚めるころには、すでに一人前のサディストの心を持っていたのです。
漫画やアニメなどで女性のキャラクターがいたぶられる場面があると、胸が苦しくなるくらいに興奮させられました。同級生や女の先生の肉体を縛り、痛めつける場面を想像することなしには、オナニーもできませんでした。でも、こんな性癖がまともでないことは、自分でもよくわかっていたのです。
だからそのような妄想は自分の心の中の奥深くだけに、堅くしまい込んでいたのです。
その後成長して、何人かの女性とお付き合いをしたことはありました。しかし私が、自分の性癖を相手に伝えることはありませんでした。それはひとえに恥ずかしかったからです。
私にとって初めて自分の性癖を打ち明け、望んでいたプレイを受け止めてもらった相手こそが他ならぬ未知子でした。そしてそれは、未知子にとっても同じことだったのです。
結衣(仮名)
私は、幼いころから両親に叱られた記憶がありませんでした。これといって思春期の反抗期もなかったような気がします。
私は父親が四十歳の時の子供でした。長年不妊治療をしていたらしく、両親にとってはやっと、という気持だったのでしょう。一人娘として、両親は本当にチヤホヤという言葉通り、いやそれ以上に私に沢山の愛を注いでくれました。
父親は自営業で不動産関係の社長をしており、朝から晩まで働きづめの生活を送っていました。母親は私が生まれたとき二十七歳で、近所でも有名な美人でした。